奥深き伝統音楽
2009年 05月 08日

photo:小原孝博
(13.MAR.2009@めぐろパーシモンホール小ホール)
先日、あるバリの音楽家に彼の作品を伝授していただく機会を得た。
伝統的なさまざまなガムラン音楽を習得したうえで、いまや世界を股にかけて、自身の音楽の創作や演奏活動、教授活動を続けている芸術家である。
彼は、現在のバリ島の音楽の中で、アーティストとして自分の行くべき道を模索している。
伝統を引き継ぎながら、新たな音楽を生み出していくこと。
時代の一歩先を歩く人間の苦悩。
生まれた時から伝統を引き継ぐ彼の身体から出てくるものに、紛れもなくバリの色濃い血を感じる。
それは、古からの香りがし、しかしながら同時に、常に前へ歩いていきたい、という彼のほとばしる情熱がひしひしと感じられ、芸術の女神の息吹きに包まれている心地良さがある。
そういえば、これまで何度も、バリ島で現在活躍する新進芸術家達と共に、創作あるいは演奏をする機会を得、あるいは創作の場に立ち会ったり、作品を鑑賞するなど、貴重な経験をさせていただいてきた。
そこで感じるのは、どんな作家の作品にも必ず根底に流れる「バリ的なもの」。
「生きている伝統」そのものだ。
成人になるまで自らの伝統を意識することなく、他国の伝統芸能・芸術を追いかけてきた自分と、つい比較してしまう。
今まで自分が生み出してきた作品の底にも「日本的なもの」が流れているだろうか。
「生きていること」は「伝統」そのものである筈だ。
なぜなら、私の命は、連綿と引き継がれた命の結果であるからだ。
では、私の身体を通ってやってきた「作品」たちは、「伝統」的なものが含まれているのだろうか。
私たちの伝統とは、どんなものなのだろうか。
私は最近、日本の伝統とは、ジャンルとして語れるもの、形として見えるものだけではないような気がしている。
さまざまに渡来したものを、自分たちの心地よい形にさりげなく作り変えられる力、その力そのものでもあるのではないだろうか。
あるいは、「そう思いたい」のかもしれない。
学生時代、自らの文化の出自について考え始めてから、事あるごとに、引き裂かれてしまいそうな感覚を覚えたりしていた。
さまざまな思いを抱えながら、それでも音楽を続けてきて、今は、「今ある自分」でしかない、ということがやっと認められるようになってきた。
「今あること」をすべて受け入れるしかないのだ、と思えるようになってきた。
そこからしか、次の地平には進めないのだ。
それなりに年をとったのかな。
では「伝統」というものの定義とは、という話を始めてしまうと、言語の問題は苦手なので、
これは、一介の音楽人間の戯言として済ませておきたい。
(逃げの一手か?)
そして、それらもひっくるめた上で、
今、一番思うことは、
何物からも自由になって、ただ、生きている者として、心安らぐ音楽を通す身でありたい。
それが、私がこの世界に生きている役割のひとつであれば、
とても幸せなことであろう、そうでありたい、と。
by motos_terangbulan
| 2009-05-08 18:23
| gamelan ガムラン

